おやかまっさんでした、ほな
(注)滋賀県東部では「おじゃましました」のことを「おやかまっさんでした」と使う。
今年も雪の季節がやってきました。
家の玄関を開けると、サアーッと冷たい空気が流れ込みます。
一瞬、義母のことが思い浮かびますが、
「もう、行かなくていいんだ」
と自分に言います。
去年の夏でしたね。
丈夫な義母が熱中症で入院し、結局は老衰で亡くなりました。本当に色々なことが凝縮された5ヶ月間でした。健康で長くいた人が急に入院したので、一変した生活に慣れるまでは大変でした。
介護生活に入って、義母の介護の仕方のどれをとっても別のやり方が良かったのではと思うことばかりです。
60半ばを過ぎた私の年齢からすると、先の見えない生活が不安で、何につけても自信がありませんでした。
義母は91歳まで、自分で買い物や身の回りのことをこなしていました。その長い人生、一体何を支えに生きてきたのかと思います。
思い当たることと言えば、4年前に亡くなった義父の存在です。
義父が死んで、何もかもから解放されたのでしょうか。自分のためだけに使える時間、楽しんで使える時間ができ、家が本当に我家と思えるようになったのではないでしょうか。
死が元気の源なんて、少々怖い気がします。
滋賀県東部にある我家は長屋で、以前は4軒が一列に並んでいました。今は左2軒がくっついて建っています。その1軒がうちです。
義母の体が悪くなって以来、ずっとこの家の始末を考えていました。口を出す親戚や小姑がいない代わり、自分が全責任をもってやらねばなりません。
『こんな時、夫がいたら』
と思いましたが、すでに黄泉の人だから仕方ありませんね。
借地に建つ長屋は、決まりとして出ていく時は更地にしなければなりません。
世間の人たちは知っているのでしょうか。手間もお金もかかることです。
《家がなくなる》
感傷的に涙ぐむ長女。多分、同じ思いでいる長男。二人の優しい気持ちは分からなくもないのですが、2軒も家を持つ力など老いた母にはないのです。
たった30坪の家に6人が20年間、顔を突き合わし暮らしていました。泣き笑い過ごした元我家です。
この家を跡形もなく取り壊し、この世から消し去る作業を、私が引き受けましょう。誰かがしなければならないと割り切りましょう。
それからと言うもの、私は長男と考えました。何を誰にどう頼めばいいのでしょう。見当もつきません。こんな時、どうします?
でも、拾う神がいるのです。
困る私たちに知恵を授けてくれる人もいて、どうにか解体屋さんが必要で、隣の家と切り離すには大工さんに頼むことが分かりました。
長男は、これはこの家の嫁である私の仕事だと前面に私を押し出し、自分は用心棒がわりに側にいます。
全てが初めてことばかり。分からないことは、分かるまで尋ねました。納得できないことは納得できないと言いました。
するとどうでしょう、私にも出来たのです。
大工さんとの交渉も、値切りもしました。長男からは白旗をあげるのが早すぎたと言われましたが、私は満足しています。どこかでまた、その分取り返します。
無事に全て片付きました。
嬉しいお年玉を1ヶ月も早くいただきました。
皆さん、有難う。
佳いお年を迎えて下さい。
-fin-
2015.01
『この1年を振り返り、自分をほめる』をテーマに自分自身に宛てた文章を手紙形式で書いた広義のエッセイです。