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先生(せんせ)、おっきに

(注)滋賀県東部では「ありがとう」のことを「おっきに」とも言う。

 

 琵琶湖近くにある杉並木に囲まれた神社の拝殿では、お宮参りのお祓いが執り行われようとしていた。
 岡田利子(としこ)も叔母として夫婦で出席していた。

「ごめんやす、ごめんやす」
 遠慮がちに一組の男女が赤ん坊を抱いて入って来た。
 どうやら、今日のお祓い二組目の人たちのようである。
 この男女、親子と見間違うほど女は若く、男は老けて見えた。
 流行の年齢の差婚か?
 50代も半ばを過ぎた利子には、気になるカップルだ。
『嫁の尻に敷かれて、みっともない』
 もし、いま私が死んだら、夫はこんな若い女と再婚するだろうか?
『無きにしも非(あら)ず』
 利子は思わず、夫の膝を叩いてしまった。
 そんな妻の思いを見ぬいていたのか、夫は楽しむかのように肘で小突き返してきた。

 夫の肘打ちでバランスを崩した利子は、
「おっとっと」
 体が揺れ、弾みで隣りのその男に寄りかかった。恥ずかしさもあり、つい言い訳めいた言葉が出てしまった。
「すみません、足が……」
「あれ、足が痺れましたんか? 大丈夫ですか?」
 男が気遣ってくれた。
「慣れん着物を着てしまいましたもんで」
 突然、その男は利子の顔をまじまじと見た。
「やっぱり先生(せんせ)や! その節はお世話になり、有難うございました」
 それだけ言うと、深々と頭を下げた。
「……お久し振りで」
 利子は伏目がちに返した。

『さて、どなたやったろうか? どこでお会いした方(かた)やろか? ひょっとして生徒さん?』
 利子は料理が得意で、夫の勧めもあり、料理教室を開いたばかりだった。
 教えるのに必死で顔を見る余裕はない。
 この顔に見覚えはと……。
「私も遅がけ(※1)に所帯を持ちまして。もう諦めていたんですけど。縁があったんですわ」
 そうか、この人、初婚なのか!
 頭も薄くなってきているのに、頑張るね―。
「そしたら嬉しやありませんか。嫁が子供ができたと言いますねん」
「そら、良かったですね。ところでなんてお名」
 利子の言葉は最後まで言えず、
「それで先生ね」
 勢いづいた男の口が動いた。
 男はこの思いを伝えたくて今まできた。
 これ幸いに良い人が見つかった。
 食べることの大切さを教えてくれた人、作る楽しさを教えてくれた人、それはこの料理の先生だった。
「マキちゃん、あっ、嫁はマキちゃん言います。料理が下手で。大きい声では。ええ、内緒ですよ。それなら私が料理を習って、してみよかぁと考えたんです。美味い物(もん)、食べたいですやん。マキちゃん一人に任すのは可哀想で。それで奮起一番して、先生とこ通い始めたんです」
 男は一気に話して気が済んだのか、
「もうまた、お祓いが始まりますな。ほな」
 軽く頭を下げた。

 利子は男の話にすっかり呑み込まれ、我を忘れていた。
 もう一度、男の名前を思い出そうとしたが、どうしても出てこない。
『まあ、いいや』
 うちの生徒さんであることは間違いない。
「先生、今は子育てで休んでますけど、その内、また行かしてもらいます」
 男は微笑む。
「ええ、お待ちしてます」
 利子も微笑み返した。

※1 遅がけ:時が遅くなってから

-fin-
2018.09

『川柳を読んでイメージを膨らませ、物語を創作する』をテーマに書いたフィクションです。

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