遅くなったランチ
昼食のチャイムが鳴り、工場内に響き渡った。
と、同時に照明器具を作るベルトコンベアも止まった。
半田鏝(ごて)を静かに置くと、米田香澄(かすみ)はトイレに向った。
新人の香澄にとって、唯一落ち着ける所、憩いの場所だった。
昭和の総タイル張りが、ひんやりと心地良い。ゆったりした広さも好きだ。
束ねた髪を解(と)き、籠(こも)った熱を放った。
これだけでも気持ちが解(ほぐ)れた。
今日は、どうにか部品を溜めずに仕事が捌(は)けた。
コンベアに追い回されずに済んだ。
ただひたすら半田鏝(ごて)を握り締めた結果である。
せっかく義姉(ねえ)さんが、勧めてくれた職場だ。頑張らねばと思う。
同じ屋根の下で暮らし、小姑と同じ会社に通勤すると言ってくれた懐の深い義姉(あね)だ。
香澄は都会での仕事に見切りをつけ、実家に戻って来たばかりである。
今の所、頼りになるのは義姉だけである。
人声が近づいてきた。トイレに入ってくるようだ。
食事を済ませ、化粧直しをする人達である。
香澄はここを出ようとブラシをポーチに入れかけた途端、ブラシが手から滑って床に落ちた。
取ろうとして香澄はしゃがみ込んだ。
その脇を二、三人の集団が通り過ぎた。
腰を落としたままの香澄の後ろで、
「今日もお弁当持参。朝の忙しい時に、お弁当よく作れるわね」と一人が言い、
「家族が一人増えたから、ほらあの娘(こ)。節約、節約」と義姉の声がした。
否応(いやおう)なしに耳に入ってくる彼女達の声。
香澄の屈(かが)んだままの足が震えた。
「で、どやのん? あの娘?」
「あの娘なー、う~ん……」
『あの娘って、私のことだ!』
振り向いて「義姉さん」なんて呼びかけることなど到底できない。
幸い、義姉さん達の後ろで屈んでいるのが噂の〝あの娘〟だと皆気付いていない。
香澄は凍りつき、床に転がったままのブラシも拾えない。
解いたままの髪が香澄の顔を隠していた。
「どやのんって、あの娘の家やもん。結構、好きにしてはる。あー、私も独身に戻りたいな~」
時に笑いながら、話は盛り上がる。
「たまには夕食作っ……」
「ねぇ、ちょっと」
集団の中から声がして、急に静かになった。
やがて足音が遠のいていく。
そうと後ろを向くと、そこには義姉さん達の姿はなく、誰もいなかった。
-fin-
2019.07.14
〝『聞く気もなかったのに、聞こえてきてしまった』という状況を設定し、創作する〟をテーマに書いたフィクションです。