top of page

青春の足跡

 〈マザーレイクびわ湖〉響きの良いこの言葉が、とても好きだ。ちょっとレベルアップしたびわ湖に聞こえるから不思議だ。
 近畿の水がめのびわ湖より、やはりマザーレイクびわ湖である。母なるびわ湖と呼ぶのも大袈裟でない。
 嬉しい時もそうでない時も、十五の少女を見ていてくれたのは、そう、びわ湖。

 金の卵と言われた私達を迎えてくれたのは、能登川という町で、びわ湖のほとりにあった。
 中学校の卒業式を終えると、すぐにこの町に来た。
 寮の部屋からびわ湖が見え、きらきらと輝く湖面はとてもきれい。じっと見入っていると、
『もう明日から学校へ行くことはない。家を出て来たのだ』
 色んな思いが次から次へと湧いて出た。夢か現実か分からない。
『寝よう、寝たら忘れる』
 十五才は十五才である。よく食べ、よく寝た年頃である。

 能登川の町には紡績工場が多くあった。
 私の就職した会社も織物工場で、蚊帳(かや)の生地を生産していた。昭和三十九年(一九六四年)のその頃には、蚊帳はもう廃ると言われ、この会社もあまり活気がなかった。入ってみて分かったことである。

 三ヶ月の試用期間が過ぎると、二交替で働くように言われた。大人に混じり、夜中も働くのである。
 これはひどい!
 たとえて言うなら、これこそ〈野麦峠〉や〈女工哀史〉の世界である。労働条件もまあまあだし、虐待もない。が、寝る時間に働くというのが我慢ならないことだ。
 とは言っても、会社の寮に住む限り従うより他はない。右へ倣(なら)えである。
 この年は東京オリンピックが開催され、職場でバレーボールの実況が流れていたのを思い出す。ガシャガシャと響く織機の音の中に実況放送の声を拾い、仕事はそっちのけで聞いたものだ。
 落ち着いて考えてみれば、決して女工哀史ではなかったのである。

 仕事にも人にも慣れてきた頃、私はTVに出た。全く思ってもみないことだった。
 その後の金の卵たち、即ち私たちのその後を撮りに来たのだ。一緒に就職した中からは、まだ辞めた人はいない。
 私は通行人とかの端役ではなく、れっきとした中心人物として登場した。でも、TV出演を自慢気に人に話した覚えもなく、誰からも「見たよ」という声を聞かないので、大したことはなかった。
 現代人はカメラ目線だの、カメラを見ればVサインをするが、五十年前の少女は違った。
 えらく緊張した顔が画面一杯に映った。慣れないカメラの、それもTVカメラの前でコチコチに固まっていた。上司のリーダーも同じである。普段はざっくばらんな人である。
 就職して半年経っても、まだ新人らしさが残るのが良かったのか、私の撮影は無事に済み、場面は切り替わった。

 金の卵ともてはやされ、若さだけを求められた私。
 それも時が経てば、ただの卵だなんて思いたくない。
〝底辺から世間を知るチャンスを与えられた〟と思うようにした。

-fin-
2017.03

『〝たとえて言うなら〟のフレーズを入れる』をテーマに書いたエッセイです。

bottom of page