昼下がりのカフェ
昼下がり、お気に入りのカフェ。
ドアを押す手元から、もうコーヒーの香りが漏れる。
「小学生の娘が帰るまでの大事な時間」
専業主婦のマリは、本を片手に窓側の席に着くと、カフェラテを注文した。
準備は整ったが、隣席からボソボソと男二人の声が聞こえ、本を読むことに集中できない。
マリの耳穴が掻き回される。
《うるさい!》
と怒鳴る勇気は持ち合わせていない。
マリは目を瞑(つむ)った。
『あれ、あの男の人、知っているわ』
マリはチラッと見た男の顔を浮かべ、
『テレビによく出ている脳科学者の中野健三郎だ。認知症の説明は素人の私にもよく分かるし、面白かった!』
さて、もう一人の男は誰だろう?
マリの耳は二人の話に向いた。
「中野、泣くなよ」
もう一人の男が言った。
『中野健三郎が泣いている?』
マリは目を閉じたままでいた。
「親友のお前にしか言えないよ、保(たもつ)」
もう一人の素性がマリにも分かった。
「保、兎と亀の兎は僕だったんだ~」
中野はしゃくり上げて泣いている。
親友の保は穏やかな口調で、
「お前はずっと一人で、脳波の記号化を目指して研究を続けてきた。畑違いの酒屋をやっている俺にも、実に丁寧に話してくれていたから、口惜しいのは分かるよ」
「もう少しで完成だったのに……」
中野の嗚咽が響く。
「それを昨日、他の研究所の奴らが成功したんだって。新聞に出ていたよ」
マリには遠くから保の声が聞こえる。
「なぁ、中野。お前は使い道で勝負すればいいじゃないか。足して二で割る、ブレンドとミックス」
中野の膝が机に当たったようだ。
カタンと音がしたようにマリは感じた。
保の声はいくらか勢いが増し、
「二人の脳波の記号をきちんと集め混ぜ合わすのがブレンド。これなら二人の特色が少しずつ出るだろう。ミックスは適当に集めて混ぜる。フフ、一体どんな人間が出来てくるやら。ハハハ」
保の笑い声でマリは目を開けた。
頭が重い。
目もぼんやりとかすんでいる。
隣席から明るい声が響いた。
「ここ、ブレンドコーヒーとミックスジュースね」
中野がウエイターを呼んだ。
『何だ。これから注文するのか』
それじゃ今まで聞こえてきた話は、嘘、本当?
マリは夢うつつとはこの事かと思った。
知らぬ間にマリの前に置かれたカフェラテは冷たくなっていた。
-fin-
2017.06
『密談』をテーマに書いたフィクションです。