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耳のうらがわ

 折に触れ、気に入った言葉や気になる言葉をメモ用紙一枚に書き留めてきた。
「走り書きのメモでも残しなさい」
 と、通い始めた文章教室の先生に教えていただいた。
 あれから十年余りが過ぎた。
 七十二才の今まで結構書いた。
「文章を書く時、役に立てば」と願い書いた。

 眠気が襲ってきたり、急ぎの用事があったりした時にパパッと書いたメモの文字は、落ち着いて見直しても
「何を書いたのやら……?」
 と後で困る。
 最近は、その判断のつきにくい字の並ぶメモを、出来事を覚えている内に見易いようにと清書するように進歩した。

 毎月異なる課題が出される文章教室の今回のエッセイの課題は『この一枚』だ。

「あるある」と、私はメモ用紙の束を捲(めく)った。
『二〇一九年九月、大型台風。放送の聞き間違いか。
〝命は命令に〟・〝帰るは怒るに〟に聞こえる』
 大きな文字でそう書いてあった。
 二〇一九年九月、大型台風が近畿地方を直撃すると報じられた。
 滋賀県に住む私は
「ついに来たか」と、覚悟を決めた。
 高台の一軒家に独り暮らしの私にとって、水害より風の強いのは恐い。

 夜が更(ふ)けるに従い、心細さが募(つの)る。
 私はちんまりテレビの前に座る。
 暗闇で風が唸る。
 雨はシャシャー、ザザザーザザザーと音を立て外壁を叩きつける。
 体当たりする台風に、
「おばさんを脅して楽しいか!」と叫んだ。
 テレビはずっと
「命を守る行動をして下さい」と繰り返す。
 その時、私の耳のうらがわがピクッと動いたのか、どうなのか。『命』は『命令』に勝手に変換され、
「命令を守る行動をして下さい」と聞こえた。
 私は「面白い!」と早速メモした。

 幸いこの時は台風の直撃を免(まぬが)れ、一晩中つけていたテレビでは、一夜を明かした避難所から出ていく住民の様子が映っていた。
「避難されていた方々が、それぞれの家に帰り始めました」
 このアナウンサーの声も私には、
「避難されていた方々が、それぞれ怒り始めました」
 と聞こえ、これもメモに加えた。
 
 今、このメモ書きを見て作り話もできる。

『何故、人々は怒り始めたのか。令和二年版』

 前夜、避難所では集まった人々を励ます為、
「明日の朝は、鮮度の良いアサリで味噌汁を作りますからね」
 と自治会長が約束した。
 皆の中から喜びの声があがった。
 自治会長は満足して、避難所の堅い床に横になった。

 ところが、自治会長の奥さんが聞き間違えた。
 翌朝になると奥さんは人々の前で謝った。
「皆さん、ごめんなさい。味噌汁を作れませんでした。主人が申しました〈先祖の良いアサリ〉なんて、いくら考えてもそんな高尚な貝を私は探せませんでした」
 自治会長は驚いて頭を下げる妻を見た。
 だが、皆の味噌汁への期待は裏切られた。
「楽しみにしていたのに」
 捨て台詞を残し、人々は怒り帰った。

 書き残したメモの一枚から遊んでみた。

-fin-
2020.06

『この一枚』をテーマに書いたエッセイです。

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